一を聞いて

 

「何百回同じことを言っても理解すらできない子がいるけど…」とある塾講師が考える、塾で得られた一番の経験の話 - Togetter

自分これ気付いたの結構最近なんで、この人若そうなのに早く気付けてすごい。

2019/10/08 13:03

 ブコメ

「教え方が悪い。」

とか

「結果が出ないのに同じ教え方を繰り返しているから。」

とかいうのがあるけれども、これらはツイートの趣旨をくみ取れていないのではと思ったので。

自分も最近まで、

「やればできる。できないのはやっていないから、もしくは教え方がまちがっているのだ。」

つまり学習への意欲の不足や、教える側のテクニックの問題ととらえていた。

「小中学校の勉強や、会社での仕事レベルのことは誰でも適切な教育・指導さえ受ければ身に着けることができる。自分ができることは他の誰でもできるし、逆もたいがいそうだ。」

と思っていた。

きっと学校で数十人が並んで同じ内容の授業を受け、理解の程度に差はあれども(表向きは)一通り同じカリキュラムを通過してきていることに由来する意識だと思う。

これは

「一を聞いて一を知る」

人間の考え方だ。

「一を聞いて十を知る」

人たちがいる。

「一を知る」人たちは、「十を知る」人たちの差分の「九」を理解することは多分できない。「多分」というのは自分が「一を知る」側だからだ。

『十を聞いて知った「十」』と、『一を聞いて知った「十」』はおなじ「十」でもきっと性質は全く違っている。「十」はより広く、高く、遠くが見えている。そして「一」はその景色を想像することさえできない。

逆もあり得る。

「一を聞いて一より小さく知る」

人たちだ。何百回同じことを言われてもそれを理解できない子供たちだ。

「一」が「十」の見えているものが見えないように「一>」も「一」の見えているものが見えていない可能性がある。上で自分を『「一を知る」側』と規定したが、「一より小さく知る」側の可能性ももちろんある。

そして残念なことに、「一>」「一」「十」これらの境界を学習によって超えることはできないだろう。学習によって脳というハードウェアの性能をより引き出すことはできるにしても、どんなハードウェアにも性能に上限はある。

実際には「一>」「一」「十」の境界はぼんやりしていて無段階に分かれているだろう。

「普通に考えれば分かる」と思っている人と話すのが辛い

「この人・会社・部署の『普通』はこれなのだな。」と割り切って、パターンに落とし込んで対処するようにしている。誰かの「普通」に自分のを寄せようとするとしんどいので。

2019/10/02 23:42

 「一」の「普通」と「十」の「普通」は当然違う。その間にも無段階の「普通」が存在している。誰もが自分のハードウェアの性能の範囲でやっていく他ない。所詮飯のタネと割り切れるのであれば誰かの「普通」を理解できずとも模倣し、パターン化してそれでやり過ごすことができれば十分だ。

学校でどれだけ勉強できるか、職場でどれだけ「使える」かなどは人間の価値の一面であって、すべてではない。

自戒を込めて。